おぶせの里だより

医療関係者が自身の経験談や体験談、趣味に関する小話をおぶせの里からお届けします。

豊かさと貧しさ

 あるテレビ番組で、日本に住む外国人が今の日本は昔に比べ、相手を思いやる気持ちや「ありがとう」「こんにちは」など他人への挨拶・感謝の気持ちが減っていると語っていました。「生活が豊か」になるのと反比例するかの如く「心の貧しさ」が大きくなっていくという今日の日本を言い当てられたかのようでショックを受けました。

 今、人類は効率と能率の追及により、莫大な利潤と便利さを手にしました。一方で、貧富の差が拡大し、これまでにないくらい差別やテロ・戦争・自然破壊が起きていて混沌としてきています。そんな中決まって犠牲になるのは、弱いもの・女性・子供・お年寄りです。

 イエス様の生きた時代でも、裕福な貴族階級・地主階級・商人たちに比し、「地の民」と呼ばれた「弱々しい人たち」、即ち貧乏人・物乞い・病人・憐れむべき境遇にある人々は、貧苦の中で虫けらのように虐げられて生きていました。そういう人々にイエス様は「弱々しい人(マタイ 5・3)」と語られました。またマザー・テレサは「あなたはこの世に望まれて生まれてきた大切な人。あなたが何であろうと問題ではありません。おなじ神様のこども、かけがえのないあなたです。大切なことは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたかです。私たちは忙しすぎます。ほほえみを交わすひまさありません。ほほえみ、ふれあいを忘れた人がいます。これはとても大きな貧困です。」と語っています。

 大自然に囲まれた地で、忙殺の日常を離れ、静かに自分自身を見つめなおし、一人一人にいつも語りかけてくださる神様の声に声を傾け、「小さきものにされる祝福」を想う時となりますよう願っています。

たいせつな存在

 「あなたにとって『大切な存在(人やもの)』は何ですか?」という質問を学生さんに問いました。ほとんどの学生さんは家族、友人、ペット、と答えました。その理由を聞くと、自分のことをよく理解してくれているから、いつも心配してくれている、静かに見守って支えてくれる、自分にとって落ち着くことができ、安心できる、困った時に力になってくれるから、といったような答えが返ってきました。自分が愛し、愛されていると実感しているものが「大切な存在」だと考えているように思われました。

 続いて、新聞記事「2度目の震災で逝った娘よ」を読んでもらい、感想を書いてもらいました。

**西宮市で阪神淡路大震災に遭った十三歳の少女は、結婚して陸前高田市に移り住み、3.11の東日本大震災で帰らぬ人となった。逃げ込んだ市民会館で津波に飲み込まれた。二十九歳、妊娠三か月だった。両親は偶然出会った一編の詩「最後だとわかっていたなら」に亡き娘の声を聴いた。**

 学生さんたちの反応は、
「何気なく過ごしている日常も当たり前のことではないのだ」「他人事ではない、いつ自分や自分の身近に起こるかもしれない」「だから大切な人を失ったとき”もっとこうすればよかった”、”ああ言えばよかった”と後悔しないように感謝の心を忘れずに今日を大事に生きていきたい」「”明日やればいいや”そんな言葉を聞くたびに、”いいのかな?”と思うようになった」「やりたいことがある、行きたいところがあるのなら、やろう!行こう!そう思うようになった」「普段から、大切な人や命の大切さを心に秘め悔いのないように行動していきたい」
といった感想が聞かれました。茶道でいう一期一会の精神に通じるように思えました。

 次に、バングラデシュの人々の暮らしや習慣、命に対する考えをスライドを見ながら紹介しました。貧富の差が激しく、ヒ素中毒の危険があると知りながら水を汲む女性、赤ちゃんを病院に置き去りにして帰ってしまう家族、守るべき家族のために自分を犠牲にする父親の話など、日本では考えられないことに衝撃を受けた学生さんが多かったようです。日本の常識は世界の非常識という言葉が改めて痛感させられました。

 これらの話し合いを通じて、学生さんたちは、自分たちが考えていた「大切な存在」とは違う大切なものが存在することが一人一人の心の中に芽生えてきたように感じられました。

 最後に、子供を亡くした米国人女性が作った詩「最後だとわかっていたなら」を学生さんたちに朗読してもらい、皆で思いを分かち合いました。9.11のアメリカ同時多発テロ事件や追悼番組や集会で朗読された詩で、一昨年の二月、陸前高田市で開催された講演会の時、講師から急に頼まれて津波で亡くなった妊娠三か月の娘さんが”流暢で心にしみる声”で朗読したといいます。両親はその一編の詩に慰められ、心の傷が癒され、立ち直るきっかけになったといいます。

≪わたしたちは、忘れないようにしたい≫
愛する人を抱きしめられるのは、今日が最後になるかもしれないことを≫
≪だから今日、あなたの大切な人たちをしっかりと抱きしめよう≫と。

 

【参考】朝日新聞記事;「2度目の震災で逝った娘よ」
「最後だとわかっていたなら」;(作/ノーマ・コーネット・マレック 訳/佐川睦)

緩和ケアを少しでも知ってもらうために

◇はじめに

*毎年我が国で癌で亡くなる方は40万人弱、今後は2人に1人が癌に罹患し、3人に1人が癌で亡くなると予想されます。

*癌は通常、終末期に近づくほど苦痛が増しますが、苦痛を抱えたまま最期を迎えることは身体症状のみならず、本人の尊厳を著しく傷つけ、見守るご家族の悲嘆も尋常ではありません。ここに緩和ケアの出番があります。

*幸い近年、医学の進歩に伴い、様々な医薬品や手法が開発され、終末期患者が苦痛に苛まれる場面は著しく減っています。

◇緩和ケアあるいはホスピスと聞くとどんなイメージを持たれますか?

 「緩和ケア」「ホスピス」という言葉を聞いただけで、「あぁ俺はもう終わりだ…、もう何もしてもらえない…、ただ死を待つだけだ…」とマイナスイメージで覆われる方が多いのではないでしょうか。

 確かにホスピスに入院する方は、癌が治る訳でも縮小するわけでもなく、その意味では限られた範囲での医療といえるかもしれません。

 しかし、実際入院された方やご家族の話を伺うと「こんな場所があったのか」「もっと早く入れば良かった」との声をしばしば耳にします。なぜならそこには新しい発見があるからなのです。では実例を見ていきましょう。

ホスピスに入院された70歳台のある男性のケース

 この方は某大病院で大腸がんが見つかるも、既にお腹に癌が広がっており手術はができず、抗がん剤が投与されました。しかし約1年後、がんの進行による腸閉塞を合併し、食事摂取が困難となり中心静脈栄養へ移行。胃管も留置され、ほどなく当ホスピスに紹介入院となりました。

 入院時、点滴に24時間繋がれた状態で、お腹は張るわ・痛いわ・食べられないわの三重苦の辛いご様子で、余命僅かとの宣告もなされていました。しかも翌日急に悪寒・高熱と共にショック状態となり、危篤状態に陥りました。検査を行っている余裕はありません。状況から中心静脈カテーテル感染に伴う菌血症状ショックと判断。カテーテルを抜去すると共に、抗生剤点滴、オピオイドや鎮痛剤点滴等で対応、どうにか危機を乗り越えました。

 その後、痛みは消えるもお腹が張り、食べられない状態が続いていました。ここで腸閉塞の苦痛緩和に優れたA剤の持続皮下注射を開始。この効果は抜群でした。腸閉塞状態は変わらないものの、症状はみるみる改善。徐々に食事がとれるようになり、苦痛も改善。点滴を外し経口薬へ変更、食事は栄養士と相談しながらグレードアップ。ほぼ10割接種できるまでになりました。

 こうなるとリハビリ作業療法士の出番です。はじめは寝たままでの下肢マッサージから始まり、座位訓練・車椅子移乗訓練・歩行訓練とレベルが上がり、歩行器での歩行・庭の散歩、ついには自宅への外出・外泊も可能となりました。

 しかし身体的苦痛が緩和されると、精神的苦痛が急浮上する事がしばしば見られます。限られた命への不安、生きている事の意味、虚しさなどで、この方も例外ではありませんでした。特にコロナ禍で家族と会う機会が減ったことも一因となり、「死にたい」という言葉も初めて口にされました。

 このような時、医療スタッフの対応は大きなカギとなります。医師・看護師のみならず、チャプレン・作業療法士・看護助手・ソーシャルワーカー・研修医・など様々な職種のスタッフが、それぞれの役割を果たしつつ、寄り添い、傾聴(患者さんの話に耳を傾ける)を心がけます。事実この方もしばらくして、自分はここに入院して本当に良かった、救われたと何度も口にされました。

 その後、癌の進行につれ、徐々に衰弱が目立つようになりましたが、それでも食事への意欲は衰えず、意識もしっかりされていました。当然痛みも増強しますので、途中から安全かつ管理しやすいオピオイドの持続皮下注へ変更することで、疼痛はコントロールされていました。

*この時点で寿命は当初予測より大幅に延びています。

 余命も限られてきたとき、最期の課題は家族と共に過ごす時間を作る事でした。しかし衰弱した状態での外泊は危険を伴います。そこで御家族とも何度も打ち合わせをし、家族の覚悟も伺い、外泊が決行されました。わずか1日でしたが、多くの身内が集まり、ご本人も量は少ないが好きなものを口にされ、大いに盛り上がったとのことでした。帰院後、楽しかった、良かったと述べておられました。

 その数日後、静かに旅立たれました。家族も感謝を述べておられましたが、逆に医療スタッフも大きな勇気と慰めを与えられたと語っています。

ホスピス(緩和ケア)のミニ知識☆

ホスピス(緩和ケア)の歴史とその概略
*中世ヨーロッパで修道士らによる病人・貧困者・旅人らのための「神の宿」がホスピスという言葉の語源で、ホスピタル(病院)にもつながっています。

*1976年シシリー・ソンダースによる聖クリストファー・ホスピス(ロンドン)が世界初のホスピスで、その後オピオイドの普及で一気に広まりました。

*1981年、浜松の聖隷三方々原病院ホスピスが日本初のホスピスです。

*1991年、「緩和ケア病棟入院料」の制定に伴い、ホスピス新設ラッシュが始まり、緩和ケア関連の学会も次々と新設されました。

*2007年、「がん対策基本法」施行で、緩和ケアは終末期がん患者のみならず、比較的早期のがん患者にも適応すべきとの提言により、オピオイド使用も一般化しています。

◇現在、我が国における緩和ケア制度(患者さんの希望に合わせて選択)
①(狭義の)ホスピス病棟
緩和ケアを専門的に行う入院施設で、「緩和ケア病棟入院料届出受理施設」の適応を満たしており、全国に数百ある。

②緩和ケアチーム
 がん診察拠点病院(大病院)中心に設置され、様々な職種から構成され、院内がん患者の緩和ケア指導・アドバイスを行うが、入院病棟はない

③在宅緩和ケア(ホスピス
最期は自宅でとの希望が増え、訪問診療(医師)・訪問看護・ケアマネージャー・ヘルパー・在宅リハビリ等のバックアップで自宅で緩和ケアを行う。

こころの豊かさを求め、自分探しの旅(母校での講演より)<7-2>(last)

  マザー・テレサは、ボランティアをしている人にこうアドバイスしています。「あなた方は、人のために何かをしてあげていると思わないで下さい。あなた方のほうがどんなにしてもらっているか、その恵みに気づいてほしい。」。

 興譲の心をもって生きるというのは、マザー・テレサのいう恵みに気づき、心の豊かさを実感することに繋がっていくのではないでしょうか。「興譲」とは、「分かち合い、共感する心を興すこと」であり、この病んでいる二十一世紀の、この世界への大きなメッセージだと思うのです。現在と未来に対する絶望感、閉塞感、それが今この時代全体を覆っています。堅固なものだと思っていた職場、社会的地位、家族、財産、これまで人生をかけてきた期待が、ことごとく裏切られるという深い喪失感が、特に中高年層に蔓延しています。また若い世代からは、不透明な時代にあって、息苦しさに喘ぎながら、崩壊する価値観の中で自分の位置を見失い、これからどう生きたら良いのか分からないという、悲痛な叫び声が聞こえてきます。

 劣等感に苛まれている方、自分の生きる道がわからず自暴自棄になっている方、未来に夢や希望を持てなくなっている方、この興譲の精神を胸に、第四の窓に隠された「自分」、未知の「自分」を探してみてください。自分探しというのは、自分一人ではできません。人と人との出会い、またこの地球上にある様々なことを学ぶことから可能になってくるのです。あなたは自分の未来を拓くために、苦闘しなければなりません。自分探しの旅というのは、狭い門から入るしかありません。自分だけに備えられた門があるのです。一方で、楽しくて、好ましくて、楽で広い道があります。多くの人がそちらを行っているとき、一人自分だけが狭い道を行くことは、とても大きな勇気と知恵が要ります。恥をかくかもしれません。でもそこには「自分」という発見があります。新しい道が開けてくるのです。

 ルネッサンスの巨匠ミケランジェロは、彼の彫刻に感嘆する人々に向かって、「自分はただ大理石の中に閉じ込められていた天使を掘り出しただけだ。」と言ったといわれています。人生の旅路の途中でふるわれるノミの鋭さ、すなわち挫折、出会い・・・こういったものが、堅く冷たい石に閉じ込められた本当の自分を掘り出してくれるのです。わたしも他人も知らなかった第四の「自分」に出会う道が開かれるのです。自分探しの旅は一生続きます。人生、山あり谷ありであり、挫折することもあるでしょう。挫折を恐れないで、自分探しの旅に出掛けましょう。あなたの人生は、あなた自身のものなのですから。

 恥
恥をかくことが恥ずかしい事ではない
恥を嫌って、何もしないことが恥なのだ
失敗する事が恥なのではない
失敗を恐れて、学ばないことが恥なのだ
ビリであることが恥ではない
挑戦しないことが恥なのだ。

こころの豊かさを求め、自分探しの旅(母校での講演より)<7-1>

 ジョハリの窓

 「自分のことは、自分が一番よく知っている」そう思う方は多いと思います。私もずっとそう思ってきました。しかし、これまで歩んできた道を振り返ってみますと、挫折、苦悩、出会いの連続で、新しい自分があることに気づかされたのです。

 アメリカの二人の心理学者が提唱した「ジョハリの窓」という考え方があります。「わたし」というものは、四つあるのだというのです。「わたし」には四つの窓があって、その一つは自分も他人も知っている「わたし」。もう誰もが、第三者も自分もすべてが認める「わたし」です。二番目は、自分は知っているけれども他人は知らない「わたし」。三番目は、自分は知らないけれども、他人が知っている「わたし」。そして四番目の窓というのは、自分も他人も知らない第四の「わたし」。「未知の窓」を明らかにしていくことが人間の成長に繋がるというのです。

 これは何によって可能なのでしょうか。それは「自己開示」と「他人との関わりの中で教えられ、気づかされること」によってなのです。自分探しをするということは、この「第四の窓を開ける」ということなのだと思うのです。私はバングラデシュの医療協力を通じて様々なことを教えられ、学び、そしてたくさんの友人を与えられ、多くのパワーをいただきました。貧しい人、病める人、苦しみの中にある大勢の人々の心に寄り添うことにより、彼らの悲惨な状況というのは一向に変わらなくても、自分のおごり高ぶり、傲慢な心というのが打ち砕かれたのです。共に生きること、思いを分かち合うこと、共感することによって、自分の心が洗われ、豊かにされていくのに気づかされました。新しい自分の発見です。第四の窓が開いたのです。

 「興譲」という言葉があります。譲を興す・・・つまり「譲る心を興す」わけですけれども、これは決して同情の情ではありません。同情というのは、あの人はかわいそうだなと思う心で、これはこれで人間としての大切な気持ちですが、裏を返せば、自分はそういう悲惨な状態になくてよかったという気持ちが隠されていて、相手を見下すような、また一段と高い位置から見ているような、いわば強者と弱者の関係にあります。ところが「興譲」の「譲」というのは、謙譲の譲で、へりくだっているわけです。そして「譲る」。これは分かち合い、共感することなのです。困っている人、貧しい人、苦しんでいる人と同じ目線で、「その思いを分かち合い、共感しあうこと」、そういう心を興すことが「興譲」というものなのだと思います。ボランティアをするということは非常に大切なことですが、大変さもあります。その際に、「してあげる」という気持ちを捨て、相手と同じ目線に立つことが大切なのだと思うのです

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こころの豊かさを求め、自分探しの旅(母校での講演より)<6-2>

 次に、なぜ私が医者になって、バングラデシュに関わるようになったかをお話ししたいと思います。私は六人兄弟なのですが、二番目の弟が海水浴で溺れて死んでしまいました。今考えると助けられたのではないかと思いますが、当時の医療状況では仕方がなかったのかもしれません。しかしこの出来事は、のちに新しい一歩を踏み出す決心をした時に少なからず影響したとは思いますが、この時に将来医者になろうと考えたわけではありませんでした。

 高校時代は山岳部に所属し、大分しごかれました。今でも時々山歩きを楽しんでいます。今考えると、高校時代は多くの仲間や先生に恵まれ、素晴らしい青春時代を過ごせたと思います。しかし、自分の将来に関してはあまり考えたことはありませんでした。それだけ精神的に未熟だったのかもしれません。ちょうど高度経済成長期で、工学部が花形の時代でもありました。私の父が工学部に勤めていた関係もあって、小学校三年まで大学の官舎に住んでいました。ですので、大学にも何の抵抗もなく工学部に進みました。ちょうど七十年安保の頃で、全国で学園が荒れすさんだ時期でした。その頃から政治のこと、世界のこと、自分の存在のことを考えるようになったのです。大学三年の時、私の将来に影響を及ぼす、衝撃的な出会いが二つありました。

 一つは、ネパールの山奥で結核撲滅のために献身的に働いていた日本人のお医者さんで、古切手や一円玉募金で結核のBCG等を買って貧しい国に贈るといった運動をされいた岩村昇先生という方です。非常に有名な先生で、「宇宙船地球号」とか「草の根運動」という言葉を作りました。今でも「草の根運動」というと、岩村先生のことを思い出します。その先生が休暇で一時帰国したとき、その報告会をたまたま聞いたことがありました。私は非常に大きなショックを受けました。アルベルト・シュバイツァー博士の話でした。あまりに自分とはかけ離れた遠い存在で、別世界の出来事だったのです。身近な日本人が一生に一度も医者にかかれない貧しい人のために、自分の生涯を捧げて生きている、そういう姿に感動し、「あぁ、こういう生き方もあるのか」と改めて考えさせられました。

 もう一つは、「密林と生と死と愛」という本との出会いでした。この本の著作者、宮崎亮先生という方は、岩村先生と同じようにNGO団体から派遣され、1968年から1991年までの23年間アフリカのナイジェリアやバングラデシュで医療協力に従事してこられました。ちょうどビアフラ戦争の真っ只中で、小さなお子さん二人を連れて、一家四人で死線をさまよい苦悩しながら医療協力を実行されました。宮崎先生もアルベルト・シュヴァイツァー博士の生き様に感動して、アフリカとバングラデシュに出掛ける様になったのだそうです。その時の様子が、彼の著書「密林の生と死と愛」という本に載ってます。私はこの本を読み、感動し、医者になろうと決心したきっかけとなったのです。弱者、虐げられた者、そういう人と共に泣き、悲しみ、喜んだのですが、この医療協力で自分達の得たものは、落伍者、失敗、挫折であったと宮崎先生は言われます。その背景にあるのは、大勢の死にゆく人々、特に子供たちを救えなかった自分達の無力感、もっともっと苦しんでいる貧しい人たちの立場に立って、彼らの苦しさを本当に理解していたのだろうか、どれだけ同じ目線に立って共に生きる事ができたのだろうか、できなかったのではないかという自責の念だったのかもしれません。そして、「自分達は落伍者で、失敗・挫折しか得られなかった…。」という言葉の裏には、自分達が一生懸命尽くしても、尽くしても、彼らの悲惨な状況というのは一向に良くならない、それどころか貧富の差が年々ひどくなって悪化している、その一方で、先進国の様に、一握りの人たちが彼らの犠牲の上に豊かな生活を送っている、このやるせない、どうにもできない矛盾した状況があったのだと思います。
 これらの出会いがきっかけで、自分にもこんな生き方ができないだろうかと、真剣に悩み考える様になりました。大学四年と言いますと、同級生のほとんどは就職先が決まり、最期の大学生活をエンジョイしていましたけれども、私は自分の生きる道を模索しながら、非常に悩んでいました。そんな時、小学生時代からの友人も同じような悩みを抱いていることを知り、二人でもう一度やり直そうと決断したのです。悩みを共有できる友がいるというのは本当にありがたいものです。しかし、四年間のブランクというのは非常に大きく、受験勉強を一からやり直すわけですから、困難は目に見えていました。ましてや医学部ですから。当時は東大に入るより難しいといわれていたくらいです。周囲の人からは「気が狂っているのではないか」と思われていたのかもしれません。何度か挫折してくじけそうになった時、支えとなったのが「自分の人生なんだ、必ず道は開かれる」という信念と、高校時代に私の大先輩で民法学者の我妻栄先生による創立記念講演で聞いた、「大器晩成す」という話でした。東北人というのは、自分を表に出すのが下手で引っ込み思案ですけれども、コツコツ、コツコツ粘り強く努力する人が非常に多いのです。後で大成するのはこういう人で、劣等意識を持つ必要はないですよ、といった内容の講義だったように思います。そして高校時代山岳部で登った飯豊縦走とか朝日、吾妻山の冬山登山、非常に辛かったこと苦しかったこと、しかし、一歩一歩の確実な歩みでそれを乗り越えたその先に、素晴らしい景色、爽快感、至福の喜びというのが待っていたことを思い出し、まだまだ努力が足りないぞと自分に発破をかけ、また陰では両親・兄弟、友人、特に高校の担任の先生に励まされ支えられながら、自分を奮い立たせて乗り切る事ができました。そして夢実現への扉が開かれたのです。 

 私がバングラデシュに関わるようになったきっかけも、先述した宮崎先生の影響がありました。
 皆さんは、ご自身の子供が障害を持って生まれた時どのように考えるでしょうか。 ヨーロッパでは「障害児はみんなの子供」、「障害を持って生まれたこの子は、皆に特別にかわいがられるから、幸せな子」というように考えます。一方、日本では「私の家はそんな家系ではない」といって、夫婦どうし、お前の家系が悪いんじゃないかとなすり合います。政府はというと「障害児をもって、大変でしょう、だから政府からお金をあげましょう」と言うだけです。どうして日本はすぐお金に換算するのでしょうか。「お金をあげます、後は知りません」というのが、日本の障害児の福祉なんです。お金を貰っても、特にお母さんはとても大変なんです。人から白い目で見られることに、耐えていかなければなりません。誰も助けてくれないのですから。

 バングラデシュでは、考え方が日本と似ている上に、政府は貧乏なのでお金を出しません。そこで宮崎先生は、小児麻痺や脳脊髄炎などの後遺症、栄養障害などによる知恵遅れの子供たちが集まる小さなハンディキャップセンターをバングラデシュでは初めてボクラの病院に作りました。無給で働くヘルス・ワーカーをたくさん育て、ハンディキャップセンターでボランティアで働いてもらう、そうするば障害児をもったお母さんはどんなに助かる事か。そして、帰国後も「チームを組んで、一年に4~5回、短期間医療協力に出掛けたい」とおっしゃいました。そんな宮崎先生の影響を受けて、私もバングラデシュに関わるようになったのです。

 宮崎先生という方は、「密林の生と死と愛」の他にもたくさんの本を書かれています。そして、吉川栄治賞や厚生大臣賞など、数々の賞を受賞されています。全国からの寄付や本の著作権などをもとに、新生国際医療協力基金というものを設け、バングラデシュへの医療協力を続けています。その基金から、医者に掛かれない貧しい人を対象に、入院費から薬代、手術代全てを出し、治療してあげています。またバングラデシュから、ドクター、ナース、医療従事者を日本に呼んで研修しています。その働きは、今までお話ししたような悲惨な状況下では、広い海辺の中から一粒の宝の砂を探すようなものであるかもしれません。しかし、そこには全国の人々の熱い支えと祈り、分かち合い、共感する気持ち、願いといった温かい心があります。だからこそ、一つ一つの小さな命を大事にすることができるのです。人と人との出会いというものは、本当に不思議だと感じます。

 いま私たち日本人は、このような貧しい人たち、苦しんでいる人たち、悲惨な状況にある人たちの悲痛な叫び声を聞くことが求められているのだと思います。

肢体不自由児施設の歴史・設立沿革

 肢体不自由児施設の子供たちは、蔓延する感染症にはとても弱いです。万が一施設内にコロナが入り込んだらと想定すると、身震いします。たとえコロナ禍が蔓延する世でも、我々医療従事者はこの子たちを守り切る覚悟です。それは後述する高木先生が提唱された「どのような子、たとえ肢体不自由児でもすばらしい生きる権利があり、尊重されなければならない」という教えを受け継ぐからです。

             肢体不自由児施設の歴史

 明治維新後、中央集権的な立憲君主制国家が打ち立てられました。欧米列強に負けまいと富国強兵が最大の国策でした。一方、人権や民主思想は置き忘れられ、国家や民度は未熟で野蛮なままでした。国力のみに価値を置き、個人の尊厳を踏みにじる時代でした。特に国家に奉仕する兵隊や労働力として役に立たないとみなされた肢体不自由児は、国家の恥として非国民扱いされました。第二次世界大戦で敗戦国となり、占領されたとはいえ、欧米の人権思想、民主思想を自由に享受できる世になって初めて日本国民は、自分たちの国が未熟だったことを自覚しました。以後、民主主義に基づいた施策が施行され、人間一個人への尊厳が保証されるようになりました。そうして初めて肢体不自由児にも人としての権利が与えられました。いわば肢体不自由児への歴史は、国の成熟度、寛容度の進歩を表す鏡であり、バロメーターでもあると言えます。

            肢体不自由児施設設立の沿革

 大正7年に日本国で初めて肢節不完児福利会が発足しました。この時代の考え方はとても野蛮で、肢体不自由児を非国民扱いしていました。”親の因果がこの子に祟り、生まれたのがこの子でござる”…と、親は世間様に対し申し訳ないといって抹殺したり、乞食となったり、見世物として売ったりと家庭の奥深くに恥として隠され、村八分にされてきました。つまり、国や民衆は富国強兵に役立たない者は、片輪者、非国民と糾弾してきたのです。

                高木憲次先生

 このような野蛮な時代にあって、東大の第二外科教授高木憲次先生は欧米の最先端の肢体不自由児施設を視察されました。帰国後、東京上野の下町を初めて実態調査しました。多数の隠匿された肢体不自由児を目の当たりにして、先生は彼らの生きる権利を声高に主張され、親や国家に隠すなかれ、と夢の楽園、教療所設立の必要性を提唱されました。しかし、時代が時代で、世間は先生を貧乏人の味方、社会主義者と冷笑しました。
 昭和17年日本国が戦争突入時代の中、高木先生は日本初の肢体不自由児施設<整肢療護>を開園されました。理念は肢体不自由児に生活介助をしながら、療育教育、リハビリテーションも行うという高邁なもので、本邦におけるリハビリテーション医学の先駆けとなりました。しかし残念ながら、昭和20年に空襲で焼失してしまいまいました。(その後、敗戦後の昭和37年に東京都立北療育園として再建されます。)
 高木先生の高邁な思想は、戦後日本の民主思想の発展ともに国家にも受け継がれ、成熟国家としての民主的な施策が施行されるようになりました。
 昭和24年児童福祉法制定が初めて制定されました。高木先生は肢体不自由児の人権もこの児童福祉施設法律に織り込まれるように尽力されました。その結果、国家の行政施策として昭和25年以降~40年頃までに、全国都道府県に最低一つ以上の肢体不自由児施設が設立されるようになりました。

              医療と福祉の関わり

 高木憲次先生は、肢体不自由児の母親から神様、仏様、高木先生と崇められるような方です。昭和25年、戦後日本で初めて設立された群馬整肢園で、東大の若い整形外科医の弟子たちに向かって、「ここで研究的な治療をしてはいけない。この子たち(肢体不自由児)は訓練(療育)すれば良くなるのだから。ただただ、この子たちの幸福だけを考えて働きなさい。」と訓示されました。まさに、肢体不自由児一療育に携わるものの本質と言えます。たとえ肢体不自由児であっても、その子の存在と成長が周りの人の喜びであり、希望であり、いたわり合うことで世の民主思想が成熟し、ひいては国家を強くするのだと思います。