おぶせの里だより

医療関係者が自身の経験談や体験談、趣味に関する小話をおぶせの里からお届けします。

こころの豊かさを求め、自分探しの旅(母校での講演より)〈1〉

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          憎しみのあるところに愛を

          罪のあるところにゆるしを

          争いのあるところに一致を

          誤りのあるところに真理を

          疑いのあるところに信仰を

          絶望のあるところに希望を

          闇のあるところに光を

          悲しみのあるところに喜びを

          慰められるよりも慰めることを

          理解されることよりも理解することを

          愛されるよりは愛することを

 

 



この文章は、マザー・テレサが愛した『平和の祈り』でございます。

 f:id:obusenosato:20200512173015j:plain初めにバングラデシュに行ったのは一九九一年でありますけれども、そのときのことです。田舎のある家庭に招かれました。夕食になって、食卓に大盛りのご飯とダルスープ、これは大豆みたいなものですけれども、ダルマメとい う豆を、カレー風にアレンジしたスープです。そのスープをご飯にかけて、手でこねてむこうの人は右手の指で食べ るわけです。そこにさらにチキンカレーと野菜も出されました 。食事が始まりました。非常においしく、お代わりも勧められ、私も満腹感を味わって食事が終わりました。そ  して、残ったのは少しだけのご飯、ダルスープ、それからチキンの無い、ほんの少し汁だけ残ったチキンカレーだけでした。本当に美味しかったんです。バングラへ行くと、 いつもカレーは美味しく味わいます。その後で、お母さんと五人の子供たちがいたんですけれども、子供たちの夕食が始まりました。何気なくそれを見て、私の背筋が凍りはじめました。何と私たちの残したわずかなものが、この一家の夕食の全てだったのです。なんと優しい人たちなんだろう。 貧しい家族が、見知らぬ人をもてなす「分かち合い」 の強烈な体験でした。私は、団塊の世代といわれる、戦後第一次ベビーブームに生まれました。戦後の物の無い時代であります。男五人女一人の六人兄弟の次男坊であります。我が家の毎日の食事では、おかずは大きな入れ物に入れて、食卓の真ん中に置かれます。「いただきます」の合図で、我先におかずに箸を伸ばして、時にはケンカにもなります。さながら弱肉強食の様相で食事が始まるのでした。そして、おっとりした長男と一番小さい末っ子が、いつも泣きを見るのでした。おかげで、この二人は今でも痩せております。そして、私はこんなに育ってしまいました。冗談はさておき、そんな状態でしたから、「分かち合う」などという、そういう思いは微塵もなかったように思います。

 f:id:obusenosato:20200512174005j:plainバングラデシュは、インドのちょうど右端の方ですね。地図で見ますと、ネパールのすぐ下にあります。それから、隣はミャンマーに囲まれてます。バングラデシュは、三十一年前に、パキスタンから独立しました。独立戦争で非常に多くの犠牲者が出て、国も荒廃しましたけれども、人々は貧困、病苦、差別と闘いながら、明日を信じて力強く復興と繁栄に向かって生きているのです。土地の広さは、だいたい北海道と九州を合わせたくらいの面積で、そこにだいたい一億三千万人の人が暮らしております。世界で最も人口密度の高い国の一つです。年々人口は増え続けておりまして、二〇二五年には、世界第四位の人口になるだろうと予測されています。平均寿命は約五十歳といわれています。人生五十年と、日本でもよく言いますけれども、五十歳でだいたい死んでしまうというのが普通なんですね。それで、一見七十歳かなと思うようなお婆さんが、オバアサンといっていいのかわかりませんけれども、白髪頭で、腰が曲がってよぼよぼの人が外来にきて、職業がら年齢を聞く訳です。「年齢はいくつですか?」大体こちらは七十歳とか八十歳くらいかなと予想するのですけれども、それが三十五歳というのです。本当かなという感じがします。この国は、日本のように国籍がきちんとしていませんので、だいたい、統計的にはいろいろな面で、アバウトな数字だと思っていいただいた方がよいかもしれません。

 バングラデシュは、国土の三分の一が海抜一メートル以下で、山は南の地方の一部と北部のネパールに近い地方に行かないと見ることはできません。雨季と乾季があるんですけれども、雨季になりますと水面が三メートル以上あがってまいります。そして一面が水の中、住まいと道路だけがかろうじて水没を免れるといった状況になります。ほとんど水なんですね。住むところだけがちょっと高くなっているような感じで、ズーッとあたり一面、水面下ということです。私が初めてバングラに行った一九九一年の年は、大洪水がありまして約十四万人の人が死にました。そして、家畜も約百万頭が死んだといわれています。いってみれば、米沢、この置賜地方の住人の全部が死んでしまったという、そういう状況ですね。それで、洪水で家を失った人たちというのは、どんどん都会に流入してスラム街を形成いたします。首都のダッカでは、いたるところにスラム街を目にします。ダッカには、日本人が建てた大きくて非常に綺麗なショナルゴンホテルという一流の、繁栄の象徴的なホテルがあります。なんか非常に奇妙なコントラストですけども、この国の、というよりは、世界の現実を象徴しているのではないでしょうか。繁栄と貧困というのが、隣り合わせにあるということです。ダッカのスラム街の数というのは、三千以上あるといわれています。そして、ダッカの人口の三分の一は、そこで暮らしているのです。非常に劣悪な環境のもとで、その日の食べ物もままならない人々が必死に生きています。そこには、日本ではほとんど見られなくなった赤痢とかコレラ、それからレプラ、ハンセン氏病、ライ病、結核、そういった感染症、それから栄養失調など、日常的にそういう病気が蔓延しておりまして、多くの尊い命が、貧しいがゆえに医者にかかることができなくて、失われていくといった状況が日々繰り返されているのです。